2007 Best Fan Writer Hugo Essays in Japanese

As the Worldcon is taking place this year in Japan, and I am nominated for the Best Fan Writer Hugo, I thought it would be both useful and respectful to get translations of some of my SF-related entries in 2006 so that Japanese fans and Hugo voters would be able to have an informed view of the work before they cast their ballots. Thus, behind the cut are translated essays. Clearly, these will be of most interest to those who read Japanese.

For the rest of you, if you’re curious as to which essays these are, they are “The Lie of Star Wars as Entertainment,” “On Carl Sagan,” “You Can Get This Book For Free. You Should Buy It,” and “Cover Story and Cover Art.

I am greatly indebted to Yumi Kurosawa and Yoshio Kobayashi for their work in translating and editing these essays.

Translations behind the cut.

サむ゚ンスフィクションに関する四぀の゚ッセヌ

ゞョン・スコルゞヌ

はじめに

 こんにちは。ゞョン・スコルゞヌです。今幎のヒュヌゎヌ賞最優秀ファンラむタヌにノミネヌトされ、たいぞん喜んでいたす。今幎のワヌルドコンは暪浜で開催されるずいうこずもあり、日本の皆様にもぜひわたしの䜜品を読んでいただきたいず考えたした。そこで、サむ゚ンスフィクションに関する四぀の゚ッセヌを翻蚳しおもらいたした。2006幎に曞いたものです。楜しんでいただれば幞いです翻蚳を匕き受けおくださった黒沢由矎さんに感謝したす。

 少しだけ自己玹介したす。わたしはサむ゚ンスフィクションの䜜家で、著曞『老人ず宇宙そら』早川曞房、原題Old
Man’s War
は2006幎ヒュヌゎヌ賞長線小説郚門にノミネヌトされ、2006幎キャンベル賞新人賞を受賞したした。オンラむンでも執筆しおおり、わたしのりェブサむトscalzi.comに公開しおいたす。ヒュヌゎヌ賞最優秀ファンラむタヌにノミネヌトされたのも、このりェブサむトで公開した゚ッセヌによるものです。

 今回のノミネヌトはたいぞん光栄です。Nippon07にもぜひ出垭したいず思っおいたす。䌚堎で皆様に䌚えたすように。それたでお元気で。でぱッセヌをどうぞ

ゞョン・スコルゞヌ

〈スタヌ・りォヌズ〉が゚ンタテむメントであるずいう嘘

 Pyr Booksの線集者ルヌ・アンダヌスから、ず“゚ンタテむメント”に関する問題提起ぞのコメントを求められた。ここでいう“゚ンタテむメント”ずは、テレビや映画でしかを知らない倧衆を振り向かせるほど小説は嚯楜的゚ンタテむニングになり埗るか、ずいう意味での“゚ンタテむメント”である。この議論の発端は䜜家のクリスティン・キャスリン・ラッシュがAsimov'sサむトに掲茉した゚ッセヌで、小説は〈スタヌ・りォヌズ〉をもっず芋習うべきだずラッシュは曞いおいる。ラッシュの䞭では〈スタヌ・りォヌズ〉は叀き良き゚ンタテむメントの芋本であり、ほずんどの小説はその察極にあっお、「特殊な甚語だらけで、限られた人しか読たず」、「珟実より醜い䞖界」ず「人間であれ、゚むリアンであれ䜕であれ、自分の仲間などどうでもいいずいう䞻人公」を描く「ディストピア小説」だずいう。

 これにむアン・マクドナルドが反駁した。〈スタヌ・りォヌズ〉以倖の小説が゚ンタテむメントを攟棄しおいるずいう芋方を吊定し「゚ンタテむメントは文法や構文ず同じく基本であっお目的ではない。出発点だ」、゚ンタテむメントがすべおだずか、〈スタヌ・りォヌズ〉がその頂点だずかいう考えも非難した「仮にわたしが目指し埗る最高峰がそこたでだずしたら、そうしおわたしが読者の心を぀かもうず望み、実珟を倢芋おきたものがすべおその尺床で枬られおしたうずしたら、わたしに残された道埳的に矛盟のない行為は曞くのをやめるこずだけだ」。この埌、ルヌ・アンダヌスがむアンの意芋にコメントしおいる。

 小説は自らを救うためにもっず嚯楜に培しなければならないか吊かずいう問題をここで論じる぀もりはない。これに぀いおは以前曞いたこずがあるし、いたはその問題に興味がない。ただ、わたし自身ぱンタテむニングでか぀知的に掗緎された本を曞くこずを目指しおおり、それは自分ならそういう本を読みたいず思うからだ、ずだけ述べおおく。今回わたしが論じたいのは、ラッシュ氏ずマクドナルド氏の議論の倧半が芋圓違いだずいうこずである。そもそもの前提が間違っおいるからで、その間違った前提ずは、映画〈スタヌ・りォヌズ〉が゚ンタテむメントである、ずいうものである。

〈スタヌ・りォヌズ〉ぱンタテむメントではない。〈スタヌ・りォヌズ〉は、ゞョれフ・キャンベルの肖像を前にしおおこなうゞョヌゞ・ルヌカスの自慰行為であり、ゞョヌゞ・ルヌカスはそれを倧勢の芳客に芳るよう仕向けたのである。

 映画〈スタヌ・りォヌズ〉に“倧衆的”なずころは䞀切ない。これは〈スタヌ・りォヌズ〉党䜜品にいえるこずだが、゚ピ゜ヌドⅠ、Ⅱ、Ⅲでは特にそれが顕著だ。どれも、自分の創䜜䞖界の内郚䜓系に他の人々を受け入れようずいう気持ちのない人間の手で䜜られおおり、自分本䜍で狭量な䜜品である。䜜家䞻矩の極臎であるが、この連䜜の䜜家は自分の䜜品の芳客を軜んじおいる――そうでなければ、少なくずも、他の人々が自分ず同じビゞョンを“持ち埗る”かどうかずいう関心が自閉症的に欠劂しおいる。“゚ンタテむナヌ”ずいう蚀葉には、䜜者や圹者が芳客を惹き蟌みたくお働きかける意味合いが含たれるが、ゞョヌゞ・ルヌカスにはそういう気持ちがない。自分の宇宙から芳客を締め出しはしないにしろ、芳客が圌の宇宙に入っおこられるかどうかをたったく気にかけおいないのである。映画〈スタヌ・りォヌズ〉を“゚ンタテむメント”ず呌ぶこずは、゚ンタテむメントの意味を根本的に誀解しおいるこずになる。

 だからずいっお、映画〈スタヌ・りォヌズ〉が“゚ンタテむニングでないずいうこずにはならない。゚ンタテむニングではあり埗るだろう。ゞョヌゞ・ルヌカス本人はストヌリヌテラヌずしおはずんでもなくお粗末な資質しかもっおいないが、少なくずも䞀般に通じる感性を持ち合わせおいる。あるいは映画〈スタヌ・りォヌズ〉第䞀䜜制䜜圓時は持ち合わせおいた。〈スタヌ・りォヌズ〉第䞀䜜は、30幎代の冒険シリヌズもの、40幎代の戊争映画、50幎代の黒柀映画、60幎代の東掋神秘䞻矩を寄せ集めた䜜品でありこのこずはわたしの著曞『Rough
Guide to Sci-Fi Movies
』でも曞いおいる、それらをすべお映画ずいう鍋に入れ、ゞョれフ・キャンベルの千の顔を持぀英雄の゚キスから仕立おた氎っぜいスヌプで煮立おたものだ。黒柀映画を陀き、これらはどれも共通文化の玠材であり、そのシチュヌをふるたった点ではルヌカスの仕事はたずもだった。〈スタヌ・りォヌズ〉にずっおもう䞀぀有利だったのは、その前に『猿の惑星』から始たり『2003幎未来ぞの旅』ぞずなだれ蟌む重たいディストピア映画の時代が10幎近く続いおいたこずだ。そうした10幎間の埌では頭を麻痺させる華々しい特殊効果もあいたっお、〈スタヌ・りォヌズ〉は新颚の到来ず感じられた。

 だが、その圓時ですら、ルヌカスは芳客を楜したせるこずずは別のこずを考えおいた。ゞョれフ・キャンベルの䌝蚘でルヌカスは次のように曞いおいる。

「『アメリカン・グラフィティ』の埌、自分にずっお倧切なのは物事を枬る尺床を打ち立おるこずであっお、䞖界をあるがたたに人々に瀺すこずではないずいう結論に至った。  これに気付いたのず同じ頃  神話が珟代ではうたく甚いられおいないこずに思い圓たった」

 神話の興味深いずころは、既に死滅した目的論的䞖界の残骞だずいうこずだ。䜕かを信じおいた人々が皆死に絶え、物語だけが残されお初めお成立するのが神話である。神話を䜜り出すこずは、死䜓愛奜者的行為だ。ある文化を暗に抹殺した䞊でその死骞を匄ぶようなものである。それはある意味、神になるより心地よい。神々は自分たちが創造した宇宙の面倒を芋なければならないが、神話を生み出す者は䜕が起こったかを語るだけでよいのだから。ルヌカスが〈スタヌ・りォヌズ〉を「遠い昔、はるかかなたの銀河系で  」ずいう蚀葉で始めたずき、圌が芳客に暗に䌝えおいるのは、芳客はこの物語の圓事者ではなく、はるか昔に死んだ圓事者たちの目を通しお、既に起こった出来事を芋せられるに過ぎないずいうこずなのである。

 それがどうしお問題なのか。ルヌカスの目的は壮倧な神話の構築であっお、必ずしも連䜜映画の制䜜ではないから問題なのだ。〈スタヌ・りォヌズ〉の音声解説でルヌカスが䟋のそっけない口調で話すのを聞けば、圌がシリヌズ党䜓を通しおいかにすべおの぀じ぀たを合わせようずしおいたかずいうこず――この連䜜映画党䜓で䞀぀の神話を瀺そうずしおいたこずがわかるだろう。それはかたわない。ただ、神話を䜜り䞊げるずいうルヌカスの本圓の目的の前には、脚本や挔技はもちろん映画そのものですら二次的なものに過ぎなかったずいうこずをこれは裏付けおいる。神話も嚯楜ずしお楜しめるものになり埗る。実際、たずえ芳客の参加を拒んだずしおも、神話も゚ンタテむニングだからこそ生き残るのである。〈スタヌ・りォヌズ〉シリヌズも゚ンタテむメントずしお機胜し埗たはずだ。だが実際には本質的に゚ンタテむメントになっおいない。ルヌカスにずっお、映画が゚ンタテむメントずしお成立しおいるかどうかは二の次であり、自分が䜜り出した神話にきちんず沿っおいるかずいう方が倧事だったからである。

 これは埌半䞉䜜゚ピ゜ヌドⅠ、Ⅱ、Ⅲで䞀局歎然ずしおいる。この䞉䜜は、スカむりォヌカヌ父子の神話を神聖化するこずのみを目的に䜜られおいる。神話の骚に肉付けするこずで、その肉を土に垰し、骚を砕いお聖骚箱に玍めるためだ。゚ンタテむメントずしお䜜られおいないのだから、あたりおもしろくないのも䞍思議ではない。むンダストリアル・ラむトマゞック瀟によるきらびやかな装食を剥ぎ取っおみれば、埌に残るのは、脇目もふらずにダヌス・ベむダヌ創造に向かう、カルノァン䞻矩者を思わせる行進だけだ。ルヌカスはそれを目指すあたり、立ち止たっおたずもな脚本を曞くこずも、圹者たち名圹者たちだが䞍可解なキャスティングだに台詞をおごそかに唱える以䞊の仕事をさせるこずもしなかった。ルヌカスはそんなこずを気にかけおいられなかった。゚ンタテむメントの座は聖兞の完成に取っお代わられおいたからだ。

 倧䜜〈スタヌ・りォヌズ〉シリヌズが完結しおわかったのは、このシリヌズの゚ンタテむメントずしおの䟡倀は、意図せずしお埗られたルヌカスずいえども寄せ集めの元にあった玔粋な゚ンタテむメントの䟡倀を抜き取るこずはできなかった、たたは特殊効果によっお実珟された、あるいは請負人たち、ずりわけロヌレンス・カスダンずリむ・ブラケットの仕事のおかげだったずいうこずだこの二人が担圓した『垝囜の逆襲』の脚本は、シリヌズで唯䞀、分別のある脚本になっおおり、無甚な台詞も少ない。カスダンずブラケットは明らかに、神話の提瀺に劣らず嚯楜ずしお楜しめるこずも目指しおおり、この二぀が䞡立可胜であるこずを立蚌しおいる。ルヌカスが自分の映画が人にどう思われるか気にかけおいないのは明癜だ。どうしお気にかける必芁があるだろうか。ルヌカスは自分が䜜りたい映画を䜜りたいように䜜っただけだ。圌のビゞョン、圌の神話、圌の構造物は完成し、それを実珟するのに䜿った手段を正圓化する必芁はない。

 皮肉にも、わたしはそれに関しおルヌカスを責める気はない。ルヌカスはルヌカスだ。わたしが非難したいのは、〈スタヌ・りォヌズ〉第䞀䜜の監督料を安くする代わりにルヌカスに続線の暩利ず商品化暩を䞎えた20䞖玀フォックスの間抜けな連䞭である。映画䌚瀟が管理したからずいっお〈スタヌ・りォヌズ〉シリヌズがもっずたしなものになっおいたかどうかはわからないが、少なくずもどの䜜品も゚ンタテむニングにしようず努めただろう。映画䌚瀟は本音をいえば神話などどうずも思っおいない。連䞭が気にするのは芳客を呌べるかどうかだけだ。映画䌚瀟が管理しおいれば、『゚ピ゜ヌド』の脚本をちゃんず台詞の曞ける者に頌たなくおいいのか、ずか、圹者の挔出をほかの者に任せたたたプロデュヌスだけしおいお倧䞈倫なのか、ずいったこずを、ルヌカスに蚀える者もきっずいたはずだ。映画制䜜のそういった面をルヌカスは必芁悪皋床にしか芋なしおいなかった。そう、ルヌカスにはにっこり笑顔を浮かべお神話䜜りで遊ばせおおいお、監督ず脚本家に向かっおこう蚀える者だっおいたはずだ。「さあ、これを嚯楜ずしお楜しめるものにしおくれ、さもないずお前らのタマをシャチのシャムヌに食わせるぞ」ああ、タむムマシンがあったら。

 ここで読者はこう思うだろう。「映画〈スタヌ・りォヌズ〉が゚ンタテむメントずしお䜜られたのでないずしたら、どうしおこれほど倚くの人が楜しんだのか」もっずもな疑問だ。結局のずころ、このシリヌズには興行成瞟億ドルを䞋回ったものは䞀本もないしかも1980幎代のドルでだ。わたしも゚ピ゜ヌドⅣ、⅀、Ⅵが十分楜しめるものだずいうこずは認める。この䞉本は斬新であり、ルヌカスが聖なる神話を探求する䞀方で、介入した請負人たちぱンタテむメントを目指しおいたからだ。ただ、この頃でも『ゞェダむの垰還』はよくなかった。゚ピ゜ヌドⅠ、Ⅱ、Ⅲを心から楜しめたずいう人がいるだろうか。ずりわけ『゚ピ゜ヌド』は気の抜けた、぀たらない代物だ。映画通では、ゞャヌゞャヌが登堎した瞬間、芳客の期埅がシュヌずしがむ音が聞こえただろう。『゚ピ゜ヌド』の最初の週末を経隓しながらも倚くの人がその埌の続線も芳に行ったのは、倚くの人が日曜に教䌚に行くのず同じ理由だ。それは習慣であり、い぀立っおい぀座るべきかわかっおおり、皆、牧垫が今週の説教をどうしくじるか芋たいのだ。『゚ピ゜ヌドⅢ』を芳終わったずきのわたしの気持ちがわかるだろうか。安堵したのだ。これで〈スタヌ・りォヌズ〉の党䜜品を芳終わった。もう自由だ。そう感じたのはわたしだけではあるたい。

 ゚ピ゜ヌドⅣ、⅀、Ⅵが゚ンタテむニングだずしおも、これらも゚ンタテむメントずしお䜜られおいないこずに倉わりはない。結局のずころ、これらは目的を実珟するための手段、ゞョヌゞ・ルヌカスただ䞀人が目指した目的のための手段に過ぎなかった。ルヌカス以倖の人にずっおは、これぱンタテむメントではないし、゚ンタテむメントだずいうのは間違いである。そしお、だからこそ、〈スタヌ・りォヌズ〉のような゚ンタテむメントがもっず必芁だずいうのは愚かなのである。䞀人の人間を喜ばせるためだけに䜜られた゚ンタテむメントがもっず必芁だずいうのか たずえば、わたしは自分が読みたいず思うような䜜品を曞くが、ほかの人がどう思うか考えないずいうわけではない。ゞョヌゞ・ルヌカスは膚倧な数の人々に、圌らを楜したせおいるずたんたず信じ蟌たせた逆にいえば、芳客の方も、ルヌカスが自分たちを楜したせおくれおいるず信じ蟌みたいばかりに、そうでないこずを認めたがらない。そんなものは䞀回でたくさんだ。

 こういうテストはどうだろうか。『宇宙の䞃人』原題Battle
Beyond the Stars
ずいう映画を芳おほしい。ロゞャヌ・コヌマン補䜜総指揮の1980幎の玚映画で、明らかに〈スタヌ・りォヌズ〉の流行に䟿乗しおいる。〈スタヌ・りォヌズ〉で寄せ集められおいるのずたさに同じものが寄せ集められおおり黒柀明の名前からずった惑星アキヌルたで出おくる、制䜜費200䞇ドルは1980幎圓時でも䜎予算だ。脚本はゞョン・セむルズその埌アカデミヌ賞脚本賞に二床ノミネヌトされおいる、おもしろくお気が利いおおり、映画ずしお䞀貫性をもっおいるのがかえっお信じられないほどである。この映画を芳お正盎に答えおほしい。これは〈スタヌ・りォヌズ〉゚ピ゜ヌドⅠ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅵより゚ンタテむニングだずいえないか。安っぜい特殊効果さえあたり気にしなければ、〈スタヌ・りォヌズ〉の神話なんぞよりずっずおもしろいず認めるのではないだろうか。

 その理由は簡単だ。この映画は芳客を楜したせようずしおいるからである。コヌマンもセむルズも、ありがたいこずに、神話にはたるっきり関心がなかった。神話の芁玠は芳客を楜したせるのに利甚しただけだ。圌らにずっお倧切だったのは、芳客を90分間楜したせるこず、そしおそれで皌いだ資金でたた次の映画が䜜れるこずだった。わたしは『宇宙の䞃人』のような䜜品がもっず必芁だず蚀っおいるわけではないもっずひどい代物を想像するこずは確かにできるが。わたしが蚀いたいのは、〈スタヌ・りォヌズ〉シリヌズを゚ンタテむメントだずいうなら、゚ンタテむメントずしおは200䞇ドルのコヌマンの映画にすらかなわないずいうこずだ。だから、〈スタヌ・りォヌズ〉シリヌズが゚ンタテむメントの傑䜜だずいう欺瞞はもうやめにしよう。

 それよりも、そのものずばりこう呌んではどうか。ゞョヌゞ・ルヌカスが自分を楜したせた蚘念碑。それはそれでいいこずだ。ルヌカスにずっお、自分の奜きなこずができたのはよかっただろう。誰だっお自分が喜ぶこずをしたい。ただ公の堎でやるからには、もう少し゚ンタテむニングにしおほしかったず思う。

カヌル・セヌガンに぀いお

 11歳のずき、わたしにずっお䞖界で䞀番かっこいいのはカヌル・セヌガンだった。ずいうのも圌がたさにわたしに向かっお語りかけおきたからだ。1980幎、11歳の少幎だったわたしは、倧人になったら倩文孊者になるず決めおいた――わたしは星が奜きで、科孊が奜きで、おもちゃが奜きだった。ちょうどそんなずきにテレビでセヌガンを芋たのだ。赀いタヌトルネックずベヌゞュのゞャケットの䌌合う枩厚そうな人物が、特殊効果ずノァンゲリスの音楜をバックに、過去の宇宙、珟圚の宇宙、将来に宇宙に぀いお芖聎者にずりわけわたしに語っおいた。

 わたしはカヌル・セヌガンに倢䞭になった。それは思春期前のオタクたち特有ののめりこみ方だったに違いなく、性的な芁玠は䞀切ないもののそれに䌌た目くるめくような匷烈さがあった。カヌル・セヌガンは、11歳のわたしがたさに将来こうなりたい、ず思う人物だった。セヌガンは、わたしにずっお文化的英雄トップスリヌの䞀人だ。あずの二人はゞョン・レノンずヘンリヌ・ルむス・メンケンである。䞉倧ヒヌロヌずしおは倉なずり合わせだが、わたしだっおいただにいささか倉人なのだからしかたない。ただ、その䞭でもカヌル・セヌガンはゞョンずヘンリヌを抑えお䞀䜍だった。きっずタヌトルネックのせいだろう。

 11歳圓時、母芪から今週の〈コスモス〉が芳たかったらいい子でいなさい、ずいわれおいたわたしが、それから四半䞖玀たったいたもカヌル・セヌガンの熱烈な信奉者のたたなのは、セヌガンの功瞟はずお぀もなく倧きいず思うからだ。セヌガンはその根気匷さずナヌモアで科孊を䞖間に䌝道し、䞀般家庭にたで届けた。テレビ番組〈コスモス〉はもちろんのこず、圌は〈ザ・トゥナむト・ショヌ〉にも䜕床も出挔し、スタヌらしい優雅な語り口で宇宙で起こっおいるこずを語った。圌は庶民にずっおの科孊者だった。それは身近なレヌス堎でも芋かけるずいう意味ではなく、レヌスを䟋に盞察速床や宇宙移動を簡単に説明できる人だずいうこずだ。

 それはずおも重芁なこずである。わたしたちにもわかるように、かずいっお玠人ず芋䞋しもせずに、科孊をわたしたちの前に芋せおくれるこずによっお、わたしたちは科孊を支持するようになり、科孊のこずを自分の理解を超えるものでも自分の信条ず敵察するものでもないず理解するようになる。善意ず根気ずナヌモアを持ち合わせ、科孊に懐疑的だったり無知だったりする人々にも進んで語りかけ、科孊は身近なものだずいうこずを瀺しおくれる科孊者であり䌝道者である人が必芁なのだ。カヌル・セヌガンはそのやり方を心埗おいた。それが䞊倖れお䞊手かったのである。

 セヌガンはわたしに倧きな圱響を䞎えた。わたしは結局科孊者にこそならなかったがなりたくおも数孊の才胜が足りなかった、それなりに科孊に぀いお曞く仕事をしおいるし、倩文孊の本を曞くずいう䞀぀の人生目暙も果たした。その本『The Rough Guide to the Universe』は珟圚第二版を準備䞭だ。わたしは科孊に぀いお曞き、衚珟するずき、カヌル・セヌガンを手本にしおいる。宇宙で起こっおいるこずの倧半は、倧半の人が理解できるように説明できる。必芁なのは説明したいずいう情熱ず適切な蚀葉だけだ。セヌガンはその情熱ず蚀葉の䞡方を備えおいた。わたしもそうありたいず思う。それはわたし自身がカヌル・セヌガンから孊んだこずだからでもある。

 聖人芖すべきでないこずはわかっおいる。わたしの䞭のカヌル・セヌガンは理想化されおいお完党無欠だが、カヌル・セヌガンも人間なのだから本圓は欠点もあっただろう。わたしが知っおいるカヌル・セヌガンは、限られた時間のテレビ映像ず限られた数の著䜜を通したむメヌゞに過ぎず、いずれもわたしにずっお受け入れやすい人物像に塗り盎されおいる。だからこそ、11歳のずきずは違っお、いたのわたしはカヌル・セヌガンになりたいずは思わない。それどころか、圌のような人間になりたいずも思わない。だいたいわたしは圌がどんな人間なのか個人的には知らないのだから。

 わたしにわかっおいるのは、圌の考え方が奜きだずいうこずである。科孊に察する圌の愛情が奜きだ。人間性ぞの信頌が奜きだ。人間はその本質䞊、たたその本質の充足のために、自分より偉倧なものを探求するずいう考え方が奜きだ。党宇宙に察する情熱を人々に䌝え、みんなでその情熱を分かち合えるず信じおいたずころが奜きだ。これらすべおを圌が䞇人に䞎える䞭、わたしもたず11歳でそれを受け取り、いたも受け続けおいる。わたしはありがたくそれを受け取り、自分の䞭に取り蟌んだ。それらを䞊手に䜿いこなしお、か぀おわたし自身が分け䞎えられたように、他の人にも分け䞎えるこずができたらず思う。

無料で読めるが買っおほしい本

『The Sagan Diary』を曞き終えたので、週間ほど前に買っおおいたピヌタヌ・ワッツの『Blindsight』を読んだ。ほかの人も曞いおいるずおり、すばらしい䜜品だ。ハヌドの良さが満茉で、来幎の各皮賞の候補䜜になるだろう。読み応えがあっおガツンずくるを探しおいるなら、この本がお勧めだ。

 ワッツは先日『Blindsight
』を
クリ゚むティブコモンズラむセンスでオンラむン公開したので、本を買う前に読んでみるこずもできる。あるいは、買えない人にも読んでもらえるようにしたのかもしれないが、興味深いのは、ワッツが公開に぀いお「実隓ずいうよりは捚お鉢の行為」ず蚀っおいるこずだ。ワッツは自身のりェブサむトでその考えを説明しおいるが、かい぀たんで蚀えばこういうこずになる。ワッツによれば、同曞の初版郚数は少なく3,700郚、ボヌダヌズやバヌンズ・アンド・ノヌブルのようなチェヌン曞店からの前泚文もなく、専門曞店でも芋぀かりにくくなっおいお、出版元のTorでは増刷するかどうかもはっきりしおいないずいう。オンラむン版で公開すれば、少なくずも䜜品を手にする機䌚を読者に䞎え、読んでもらうこずができる、ずワッツは考えたのである。

 ワッツは、この本の商業的救枈にこれ以䞊䜕かできるずはあたり楜芳しおいないようだし、版で公開するこずでそれをどうにかできるずもあたり思っおいないようだ。珟段階では、圌はこの本を買っおもらうより読んでもらうこずを優先したず思われるもちろんワッツ本人は違うずいうかもしれない。わたしは圌が曞いおいるこずを自分なりに解釈しただけだ。で読んだ人のせめお䞀郚でも圌の本を実際に買っおくれるこずを望むが、ワッツがあたり期埅しおいないのももっずもに思える。ラむセンスなどの無償提䟛制床によるオンラむン公開が著曞の売䞊や著者の評刀によい圱響を䞎えた実䟋はたくさんあるが、それはあくたでもそういう䟋もあるずいうこずに過ぎず、䞭にはたたたた急成長䞭の著者だったから公開が成功に結び付いたずいえるケヌスもあるだろう。

 たずえば、チャヌルズ・ストロスは昚幎『Accelerando』をラむセンスでオンラむン公開した。チャヌルズはこの䜜品の売れ行きはそれ以前の䜜品よりよかったずいうだろうし、ヒュヌゎヌ賞にもノミネヌトされたほどだから本圓だろう。果たしおこれは、公開が新しい読者ず賌入者を生み出したからなのだろうか。それずも、『Accelerando』の発衚たでにチャヌルズ自身がすばらしい䜜家になっおいたからだろうか。䜕しろ連続しおヒュヌゎヌ賞のベスト長篇郚門にノミネヌトされ、すばらしい曞評を寄せられ、マスコミにもしばしば登堎し、オンラむンでも健党か぀掻発な掻動を瀺しおいるのだから。わたし自身は、䜜品のオンラむン公開は同曞の売䞊に䜕の悪圱響もなかったず思うが、ではそれが売䞊にどれほど貢献したかずいうずわからないず思う。わずかかもしれないし、盞圓かもしれないし、皆無かもしれない。デヌタには雑倚な芁玠が混ざっおいお具䜓的な立蚌は難しい。

 もっず広範に芋れば、のような方法でオンラむン公開されおいる䜜品の数は、有効なデヌタがずれるほど倚くない。したがっお、デヌタに䞍玔芁玠が倚いだけでなく、デヌタ自䜓の量も足りない。それに圓然ながら、䜜品ごずに条件は異なる。ワッツが『Blindsight
』を公開した状況ずチャヌルズが『Accelerando』を公開した状況は違うし、コリヌ・ドクトロりが『マゞック・キングダムでたそがれお』を公開した状況ずも、わたしが『Agent
to the Stars
』を公開した状況ラむセンスで公開したのではないがオンラむンで無償ダりンロヌドできるずも違う。ラむセンスによる䜜品公開は、たずえば、ワッツが読者を増やす䞊では効果をあげたかもしれないが、そうしたオンラむンの読者のかなりの割合が賌買者に転じない限り、実際問題ずしおはほずんど意味がなかったずもいえる。結局のずころ、出版は売䞊次第で動く。ワッツの本が売れなければその埌の出版は䞀局困難になるだろうし、そうなれば、買わずに䜜品を読んだ新しい読者たちがピヌタヌ・ワッツの次の䜜品を読む機䌚も少なくなっおしたう。

 ずいぶん遠回りをしたが、ここでわたしが論じたいのは、これたで議論されおこなかった差し迫った問題、読者が著者に察しおどれほど責任を負うかずいう問題である。たずえば、わたしが『Blindsight』をダりンロヌドし、これを読んで気に入ったずする。その堎合、わたしにはワッツの本を買う責任があるだろうか。ある芋地からいえば、その責任は䞀切ない――読者がどんな圢であれ代䟡を支払う矩務のない方法で、ワッツは䜜品を公開したのである。読者は「ありがずう」ず蚀う必芁さえない。

 その䞀方で、いた珟圚このオフラむンの䞖界では、䜜家は売䞊に応じお報酬を埗おいる。䜜家が受け取る報酬の䞀郚は本の売䞊成瞟に䟝存する。本が売れおいなければ、䜜家は補助的な収入講挔料、出挔料などを埗るこずもできない。わたしが読者ずしおワッツの䜜品を楜しんだずしお、感謝を衚す最良の手段――そしおもっず利己的な動機ずしお今埌さらに圌の䜜品を読めるようにする最良の手段――は、その本を買うこずなのである。だからこそわたしも、間接的な恩恵を受ける同業者ずしおの立堎は抜きにしおも、コリヌの党䜜品を買い、『Accelerando』を買い、『Blindsight』を既に買っおいたのでなければ、きっず泚文しおいただろう。わたし自身は、そうするこずが著者に察する責任だず考えおおり、そうするこずで䜜品を盎接的か぀真摯に支えるべきだず思っおいる。これを読んだ人に同じ考え方を匷芁するこずはできないが、同じように考えおくれるずうれしい。

 さお、圓然ながら、読者が自ら曞店に足を運んで本を買うこずが適わない状況もあるだろう。金銭的に䜙裕がなかったり、倖囜に䜏んでいたり、なんお悪魔の読み物だず決め付ける芪から犁じられおいたり。それなら、やむをえない。ただ、わたし自身にはそういった制玄は䜕もないし、奜きのむンタヌネット䜏人の倧郚分も同じではないではないだろうか。そういう人たちは、公開されおいる小説が気に入ったら、実際の本を買うこずでそれを衚明しおほしい。自分がいらないなら、友人にプレれントしおもいいし、地元の図曞通に寄付しおもいい。そうすれば、著者の評刀も広たるのだ。

 蚀いたいこずをたずめよう。たず、『Blindsight』はすばらしい䜜品なのでぜひ読んでほしい。公開版で読んだ堎合は、読み終えお「うわあ、ものの芋方が広がった気がする。『Blindsight』のパワヌのおかげだ」ず思ったなら、近くの曞店ぞ出かけお本を買うかあるいは泚文するか、オンラむンで買っおほしい。もちろん、そうする矩務はない。でもそうしおほしい。この本が気に入ったなら、Tor
Booksに増刷を即断させるのに貢献しおほしい。

『Cover Story』ず衚玙画

 画家で珟圚ヒュヌゎヌ賞にノミネヌトされおいるゞョン・ピカシオから、『Cover Story: The
Art of John Picacio
』が送られおきた。月末に出版される予定の本だ。矎しい装䞁の本で、、ファンタゞヌ、その他のゞャンルから圌の䜜品が集められおいる。ピカシオの䜜品には䞀目で圌の䜜品ずわかる䜜颚があり、写真のように写実的な人物ず鮮やかな色䜿いが特城だどちらの特城もこの本の衚玙によく出おいる。わたしは個人的に圌の䜜颚が奜きなので、䞀冊の本ずしおたずめお鑑賞できるようになったのはうれしいこずだ。

 衚玙画ずその制䜜過皋に぀いおのピカシオの簡単な説明もよかった。䜜家は衚玙画制䜜に関しお知識もないし、あたり口を出さないこずになっおいるので、衚玙画アヌチストの考えを少しでも知るこずができるのはよい。ピカシオの制䜜信条の䞀぀に「本は神である」ずいう蚀葉があったのはありがたかった。本の内容ずたったく関係のない衚玙画を倚々芋おきたので、本から着想を埗おいる衚玙画アヌチストがいるずわかるのはうれしいものだ。

 わたしがピカシオの䜜品が奜きだずいうのには、ピカシオ本人より、ピカシオに衚玙画を頌む人々の立堎を思う郚分が倚分にあり、ピカシオに䟝頌するずいうこずが、ずファンタゞヌの衚玙画をあるべき姿にしようずいう意欲ず願望の珟れであるずころにある。倧局的に芋れば、これは内容を適切に衚珟した衚玙画を生むこずに぀ながり、具䜓的には、たずえば、たずもな瀟䌚人がその本を手に町ぞ出おも、自分が読んでいる本の衚玙を隠したくなったりしないずいうこずだ。ピカシオの䜜品のような衚玙画は、その本のファンタゞヌ的芁玠を隠さずに衚珟しながら、ファンタゞヌ読者以倖の人々をも排陀せずに受け入れるそしお魅了する衚珟になっおいる。それは賢明なやり方だ。

 これは必ずしも新しい流れではない。間違っおいるかもしれないが、デむブ・マッキヌンによるコミック『サンドマン』の衚玙画にたでさかのがれるのではないか。圓時の他のコミックの衚玙画ずはたったく違い、コラヌゞュ合成を甚いた圌の䜜品は、䞭身のコミック䜜品自䜓の䞻題の成熟床に合臎しおいた。そこからこの朮流はダヌク・ファンタゞヌの分野に流れ蟌みチャむナ・ミ゚ノィルの衚玙が奜䟋だ、それがいたにもいい意味でやっおきおいるようだ。いたたでず違うのは、ずいっおもわたしの個人的な感觊に過ぎないが、ピカシオのような衚玙画が倚くなったこず、それも䟋倖的なものずしおでなく、暙準あるいは少なくずも匷力な指針になり぀぀あるこずである。

 これはいいこずに違いない。悲しいかな、本は衚玙で刀断される。だが、ピカシオの䜜品のような衚玙画なら、衚玙の䞭身はたじめな倧人がたじめに読める䜜品だずいう、ファンタゞヌ読者ならずっくに知っおいるこずを瀺唆しおくれる。これはファンタゞヌ界にずっおも、ファンタゞヌ䜜家にずっおも、朜圚的読者にずっおもいいこずである。もちろん、優れた衚玙画がすべおの問題を解決するわけではないが、問題を䞀぀は枛らすこずになる。それはよい出発点になるだろう。

***

 数日前にゞョン・ピカシオの衚玙画に぀いお曞き、自分が衚玙画の歎史に暗いこずを露呈しおしたったずころ、ピカシオから電子メヌルが届き、リチャヌド・パワヌズの䜜品を芋おみるこずを勧められた。パワヌズは、䞻に50幎代から60幎代にの衚玙を倚数手がけたアヌチストだ。eBayで探したらわりずすぐに『The
Art of Richard Powers
』が芋぀かり、賌入したらやはりわりずすぐに手元に届いた。

 パワヌズの䜜品を芋お、ああこの絵か、ずすぐにわかった。ただ、わたしがを本栌的に読み始めた80幎代初め頃にはパワヌズの最盛期はおおかた終わっおいたず蚀わざるを埗ず、その頃になるず、圌の䜜品、たずえばロバヌト・ハむンラむン䜜『フラむデむ』の衚玙画などは、自己嫌悪の矎孊ずでもいうような時代の芁請、「できるだけおどろおどろしく、そしお乳房も加えお」ずいった芁望に屈しおいたように芋える。

 これもわたしの思い違いかもしれないが、わたしの蚘憶では1980幎代はの衚玙画にずっお悪い時代だったように思う。゚アブラシで描かれた乳房が隆盛を極めた時代だ。そういった趣味が廃れおきたのはようやく最近のこずである。圓時はの衚玙画のせいで、ファン以倖の人にを読たせるのは至難の業だった。女友だちにクリスマスプレれントずしお『異星の客』――衚玙はカヌル・ランドグレンだった――を買ったずきのこずを芚えおいる。わたしは、頌むから衚玙は無芖しおくれ、ず蚀ったものだやはりランドグレンの衚玙だった『愛に時間を』を人にあげたずきもわたしは同じこずを蚀った。

 どちらの衚玙も問題は裞ではなく内容を考えるず皮肉だが、党䜓的に挂う悪趣味な感じず、本の内容ずかけ離れおいるこずだった。『異星の客』の最高の衚玙はいたでもオリゞナル版たぶんだ。ハむンラむンが䞻人公のメタファに䜿ったロダンの圫刻が知的に配されおいる(『愛に時間を』のオリゞナル版の衚玙は氎着姿のラザラス・ロングの䜓から女たちが生えおいる絵で、こちらはそれほどよくない。

 パワヌズの衚玙画の倧半には80幎代の゚アブラシの胞のようなものはほずんどなく、それはいいこずだず思う。パワヌズはシュヌルレアリスム颚のあり埗ない圢の建物や生物を描いた。圌の衚玙は、芋る者に本の内容を想像させるが、特定のシヌンが描かれおいるわけではない。圌の衚玙画は叀臭い――パワヌズの衚玙画を芋れば誰でも過ぎ去った時代のむラストレヌションだず思わずにはいられない――が、圌の時代はたさにむラストレヌションのよき時代だった。

 1980幎代にファン以倖の人にを読んでもらおうずした経隓があるからかもしれないが、わたしはの衚玙画を芋るずき、「普通の人はこの本を読んでいるずころを芋られお恥ずかしくならないか」ず必ず考える。いや、カヌル・ランドグレンを䟮蟱する぀もりはたったくないランドグレンの他の䜜品、ずりわけ䞀連のロックポスタヌはずおもクヌルだ。ただ、ランドグレンの衚玙画、それも80幎代の小説の衚玙画の倚くは、特定の読者局に蚎えるこずだけを意図しおいるように芋える。その読者局ずは、実際にそれをどう扱えばいいのかも知らずに女の胞ずいうだけでただ舞い䞊がっおしたうようなティヌン゚むゞャヌの少幎たちだ。わたしだっお1980幎代にはそういう少幎の䞀人だったのだから、それもわかる。そういう衚玙には魅かれた。だが、その結果、それ以倖の読者を匕き寄せる機䌚は倧きく倱われたず思うし、そういう衚玙画がに䞎えたむメヌゞず衚玙画の方向性のせいでもちろんそれ以倖にも倚くの芁因はあるがはいたも損をしおいるずいえるだろう。

 これに察し、パワヌズの衚玙画はそれ以倖の読者局にももっず開かれおいるように芋える。ピカシオを初めずするいたの䞖代の衚玙画アヌティストにもそういう䜜品が増えおいる。たずえば、ピカシオの堎合、圌の衚玙画には80幎代の衚玙画の女性たちず同じくらい裞䜓の人物も倚く描かれおいるが、それはより掗緎された裞䜓であり、「あっ、乳銖だ」ずいった反応以䞊のものを喚起しようずしおいるそこでは裞䜓もいわば平等で、女性ず同じくらいの頻床で男性の裞䜓も描かれおいる意矩も倧きいず思う。

 ピカシオの䜜品およびいたの䞖代の倚くのむラストレヌタヌの䜜品は、パワヌズの䜜品の盎系ずは思えない。少なくずも技法は異なっおいる。替わりに、察象ずなる小説䜜品の粟神を喚起させようずする姿勢――その姿勢にわたしは拍手を送りたい――は感じられるだろう。圌らはクラむマックスシヌンのありふれたむラストや女性登堎人物が裞になる堎面を描こうずはしおいない。

 圓然ながら、衚玙画は商業目的を果たさねばならず、売れる本にするこずが求められる。だが、売れる本にする手段もさたざただ。女性の胞を芋せる方法もあれば、頭を䜿う方法もある。パワヌズの䜜品は埌者だったずわたしは思う。そしお、その姿勢がいたの䞖代の衚玙画むラストレヌタヌたちに浞透しおいるこずを喜ばしく思う。

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